創業から現在の紅中になるまでの軌跡をたどる
紅中は戦後復興期に創業し、昭和・平成・令和と70年以上の月日を経て、ベニヤ板の販売の小さな会社から空間創造企業へと変化し続けてきました。
このシリーズでは紅中がどのようにして変化していったのか2回に分けてご紹介します。この記事では戦前から昭和の終わりに至るまでの歴史をたどります。
創業者の中村正作は旧制中学校を卒業後、親戚の呉服屋へ養子に出されるが23歳で独立する。独立後は京都の裕福な家を回り、欲しいものを聞き出してそれを仕入れる呉服の個別訪問販売に活路を見出す。
求めるものを求める人に直接売っていくという紅中の根本がここで培われた。
1944(昭和19)年 戦争のあおりを受け廃業
戦争のあおりを受け呉服商を廃業し、兄の勤める長野県の航空機製造工場に勤務する。ここでの約2年間が正作の人生を一変する経験となる。
戦前の京都の風景
航空機
大阪の北浜に兄弟4人でベニヤ板を扱う「中村建材商会」を設立。
戦時中に勤めていた航空機製造工場で航空機用の合板や積層板を見ており、戦後の復興に役立てたいとの思いがあった。また、当時の合板の生産地である名古屋とのパイプをもっていたことも大きな要因となった。
中村正作が「中村建材商会」を離れ、当時京都の中でも木材商が多く集まっていた二条駅の近くに「紅中商会」を創業。
資本金100万円で紅中商会を設立。
創業当時は戦後の復興期でものが飛ぶように売れた時代であったが、仲間売りを嫌い、直接ユーザーである家具商・建具商・建設会社に合板を販売していた。それ以外の販売先には、太秦映画村や新聞社、百貨店の営繕部などもあり、そこで知り合った会社との取引から商売が拡大していく。
創業者:中村正作
当時の京都店(左端が創業者:中村正作)
懇意にしていた工作所の関東進出に伴い、東京へ進出。
当時の横浜では米軍の軍事拠点が設置されたことにより、米軍家族が横浜へ引越していた。当時の紅中社員が米軍家族の家財道具一切を運ぶベイマツ合板の箱を大量受注することになった。このベイマツ合板の箱は現在のコンテナの原型であり、後の梱包事業開発へと発展し紅中の主力マーケットとなる。
当時の東京店
当時の横浜店
1970(昭和45)年 6月 サッシ事業部開設
1971(昭和46)年12月 社名を「株式会社紅中」に改称
サッシ事業部が独立し、グループ会社として「株式会社サンビルド」を設立。
インテリア事業部が独立し、グループ会社として「株式会社インテリア紅中」を設立。会社周辺の店舗の改装などもしたが、時代に合っていなかったのか平成7年に廃業。
サッシ部門時代の写真
設立当時のインテリア紅中
当時、日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)による集合団地の建設がピークであった。当時の紅中社員が木材を卸ていた建具メーカーなどと協業し、集合団地の建具を製造から工事までトータルで受注した。
当時、東京近辺では家具業界が全く開拓されていなかった。そこへ目を付け家具メーカーへの営業を行い、百貨店販売をメインとする家具メーカーとの取引が行われるようになった。その他にも家電メーカーにテレビキャビネットやスピーカーボックスなどを納品するなど、ものづくりの裾野を広げていく。
集合団地のイメージ
テレビキャビネット